マジョリティの特権に気づき、自分にできることに気づいた
こちらの記事、上智大の出口先生の講演会のイベントレポートを読んで、体に電気が走った気がした。何度も何度も読み返した。
差別や人権の問題を個人の心の問題に負わせすぎなのかもしれない。「マジョリティの特権を可視化する」イベントレポート
なぜか、ずーーーっとモヤモヤしてきたことが言語化されている気がした。TwitterやFacebookでシェアしたら、わりと多くの人が共感してくれたのは、同じように感じていた人が多いのかもしれない、とも思う。
努力して手にしたものではなく、たまたまその属性を持って生まれたことで得られる恩恵が『特権』。
この『特権』は、既に持っている側には意識しづらく、「持っていない人にははっきりと感じられるもの。
その例えが秀逸。
わかりやすくたとえるなら、“自動ドア”。自分が特権を有する側に属していれば、前に向かって進みたいときドアが勝手に開いてくれるし、ドアの存在そのものに気づかないことすらある。
ここで“自動ドア”の恩恵を受けやすいのが、いわゆる「マジョリティ」。
「マジョリティか、マイノリティか」は、ここでは数の問題ではなく、権力を「より多く持つ側か、持たない側か」。
この2つは「どちら側なのか」が明確にわかれるものではない。私たちはそれぞれ多様なアイデンティティを抱え、マジョリティ性とマイノリティ性を両方持って生きている。
差別の問題に絡みやすい7つのアイデンティティ。そのなかで自分はマジョリティ性をいくつ、マイノリティ性をいくつ抱えているか、まずは数えてみる必要がある。
わたしは、ジェンダーが女性、それ以外はマジョリティ。一般的には高学歴と見えているだろう。でも、1番身近な職場で周りがさらに高学歴ばかりの環境にいるとその自覚はなくなる。しかも、私自身は男性的に頑張ることも、数字やロジカルな能力もあまり高くないため、男性的で強くなければいけない息苦しさ、抑圧的なものをいつも感じていたことを思い出した。
そうなんだ、特権は自覚が難しい。こうして意図的にアイデンティティを振り返らないとなかなか気づくことはできない。
そして、特権を持つ人たちに共通することをズバリ指摘してくれて、なるほど!と膝を打つ。
「特権への自覚がない」「全体の構造を知らない」といったこと以外にも、特権を持つ集団に属する人には共通する特徴がある。
まずは、「社会的な抑圧がある」という現実を突きつけられたときに、それを否定したり回避したりしがちだということ。さらに、自らが「差別を生む特権集団の側にいる」という認識に抵抗を示す傾向があるという。
「女性管理職が少ないのは、女性が管理職になりたがらないからだ」と言う男性管理職や、女性ばかり優遇されると「男だって辛いんだ」とかいう男性たちもこれなんだな、と理解できる。
特権がある=バラ色の人生を送っている」と言っているわけではないんですね。他の抑圧構造のなかで生きてきた人も、当然たくさんいるでしょう。ただ「人種」というアイデンティティに限って言えば、白人として抑圧される経験はあまりないんじゃないか。
↑この「人種」を「性別」、「白人」を「男性」に置き換えても理解できるよね。
ここからがものすごい考えさせられる。
構造的な抑圧があるなかで、その流れに積極的に加担するのが「差別主義者」。流れに逆らう抵抗をするのが「人権主義者」だと一般に言われる。ただ、多くの人はこうした問題に関与せず、自らを「中立な立場」と捉えがちだ。
だが、ここまで見てきたように、マイノリティが受ける差別とマジョリティが持つ特権は常に表裏の関係にある。そして、制度的な抑圧、文化的な抑圧は個人の意思を超えて差別を生み出し続ける。果たして「中立な立場」は存在するのだろうか。
そう!中立ってあるのかな??
これ、いつも気になってた!!
私の周りも表立って差別する人はいない。みんないい人たち。でも、日本のジェンダーギャップ指数がまた落ちた、というニュースに憤りを覚え、たまに誰かにその話をすると「私らの周りには差別はないよね。だれも差別なんてしないよね」と言うし、時には女性だって「私は恵まれてきたからなー。差別なんて私は感じたことない」と言う。そうかもしれない。でも、内心どうにも煮え切らない、無性にモヤモヤしたものを感じていた。
私も昔は、自分を中立だと思っていました。でも、やっぱり中立なんてないんです。社会的な抑圧を防いでいない以上、どれだけ消極的でも差別に加担している。その意味では「受け身な差別主義者」と言えるのではないでしょうか。
差別をなくしたいと思うのであれば、やはり流れに逆らい、抑圧構造に向かって小さくても一歩を踏み出す必要があります。行動を起こす『アライ』に、みなさん自身がなっていただきたいと思うんです。
そもそもマジョリティ性を持った側が、自分の特権に自覚的になってはじめて対話が成立する。変わらなくてはならないのは、マジョリティ性を持った側なんです。
そう!これ、イジメと同じ。中立は見て見ぬふりと同じ!イジメに加担しているのと同じなんだ!
あなたは「受け身な差別主義者」になりたいだろうか?だれもなりたくないはず。でも、自ら方向を変える一歩を踏み出さない限り、そこは「受け身な差別主義者」に向かう「自動ドア」だらけだということ。勝手にあなたは「受け身な差別主義者」になってしまっている!!
これって恐ろしいことだと思いませんか?
1番響いたのはここ。
差別について語り、特権を可視化していくことで、社会の抑圧構造が見えやすくなる。自分が労せず持っていた優位性に気づきやすくなる。逆に差別や特権について何も語らなければ、それはいつまでも目に見えない形で残り続けるのだろう。
「子どもをレイシスト(人種差別主義者)に育てるには、差別について語らなければよい」——講義中にこの一文が紹介された。
自らのなかに入り混じるマジョリティ性・マイノリティ性と正面から対峙することの意味を深く考えさせられる。「自分の持っている特権に向き合ってください」と語る出口さんの言葉から私たちが学ぶものは、とても大きい。
子どもをレイシスト(人種差別主義者)に育てるには、差別について語らなければよい
なんて重い一言!!頭を殴られた気がした。
私は総じてマジョリティ側にいる。でもマイノリティの部分で抑圧も感じてきた。そんな私だからできることがある。
今、私は将来のリーダー人材の育成に携わっている。先日、お友達に「そのお仕事、ワクワクしますか?」と聞かれてハッとした。これまで、正直、既に優秀な人をリーダーにすると言っても、彼らはほっといても私が何もしなくても勝手にリーダーになっていくでしょう、と思わないでもなかった。
でも、将来のリーダーたちに伝えていかなければならない大事なことがある。私だから伝えられることがある。特権を持つリーダーたちが、自らのなかに入り混じるマジョリティ性・マイノリティ性と正面から対峙するようになれば、そんなリーダーが増えれば、社会構造はだんだん変わっていくはず。いや、マジョリティ側の人がその特権に気づくことでしか、変えることはできない。
マイノリティに優しい世界は、当然マジョリティにも優しい。いつ何時、自分に何があるかわからない。それでも安心できる世界なのだ。
この記事を何度も読み返して、私にできることに気がついた。なので、書いておきたかった。
良ければこちらも!
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