ブックレビュー:本当の勇気は「弱さ」を認めること

この本の内容紹介にあったこの文章
「読み終わる頃には、著者とともに人間として一回りも二回りも成長し、精神的に強くなった自分を見つけることでしょう。」

これ本当だわ。ぜひ欠乏感を感じている人に読んでほしいです。共感性の高い人、自分は自己肯定感が低いなぁと思う人は、特に勇気づけられるはず!

マーキングしたところはいっぱいですが、歩きながら聴いてて思わず涙がこぼれたのが、第4章、傷つく心を守ろうとして私たちが使う武器のところ。

嬉しいことがあったときに素直に喜ぼうとしても、自分の感情にストップかけたりしませんか?私も以前は、心から喜べない自分がいたなぁと思います。

これって、傷つく心を守ろうとしている武器、鎧だったんですね。人は傷つく可能性を受け入れられないと、心から純粋に喜べない。喜びに不吉な予感を感じてしまう。

喜びに心を許すには無防備になる必要がある。けど、無防備になるのが怖くて、人は傷つく可能性に先手を打とうとする。
不意打ちされて傷つきたくない。だから悲劇のリハーサルをしたり、みずから選んで失望感に閉じこもったりする。

でもこれは間違いだ、というのは辛い経験をした人の話を聞くとわかります。ここで泣きました。

ある 60 代前半の男性はこう語った。
「昔は、最悪の事態を予期しておくのが最高の処世術だと思っていました。最悪のことを考えておけば、いざそうなっても心構えができているし、もし起きなければそれはそれで喜ばしいと。

ところが、ある日それは間違っていということを、もっともつらいかたちで思い知らされたのです。私たち夫婦は自動車事故にあい、妻だけが亡くなりました。

言うまでもなく、最悪の事態を予期したからって、何の心の準備にもなりませんでした。それどころか、どうして妻がいたすばらしい時間を心から楽しまなかったのかと悔やんでいます。

今、妻のためにできることは一瞬一瞬を心から楽しんで生きることだけ。もし妻がここにいてくれればと思いますよ。やっと楽しみ方がわかったのだから」

そして、この傷つく心を守ろうとする鎧、武器を捨てるための方策が目から鱗でした!

喜びの瞬間にしばしば忍び寄る傷つくことへの不安は、悲劇の警鐘ではなく、何かに気づかせようとする合図でもある。それが何の合図か気づいたとき、私は目からうろこが落ちる思いがした。

喜びのさなかの不安の揺さぶりは、感謝へのいざないなのだ。 目の前にいる人、人とのつながり、今の瞬間が、どれほどありがたいものか認めなさいと、いざなっているのである。  

感謝は、喜びのさなかの不吉な予感に対する解毒剤だ。喜びに心を開ける人は例外なく、感謝を実践することの大切さを口にする。

欠乏感の反対が、充足感であるとすれば、感謝を実践するってことは、「これで充分であり私もこれでよいと認める」ことなんですね。

悲しみと暗闇をくぐり抜けた人々が教えてくれた次の 3 つのこと、それぞれの詳細な説明も涙が出てきました。特に3つ目の本文は胸を打ちます。

1.喜びはごく平凡な瞬間に訪れる。
2.今持っているものに感謝する
3.喜びを浪費しない

悲しい出来事や喪失にあらかじめ備えることはできない。せっかくの喜びのチャンスをことごとく絶望のリハーサルにしていたら、立ち直る力をくじくことになる。

たしかに喜びに気を許すのは不安が残るかもしれない。怖いかもしれない。傷つく可能性もある。それでも喜びを受け入れ、喜びの瞬間に身をゆだねるたび、回復力と希望がはぐくまれているのである。

喜びは私たちの血肉となり、悪いことがあったときに(それは必ず起きるのだが)対処できる、より強い自分になっている

そして、最後の文章にもジーーンときます!

果敢なる挑戦は、勝つか負けるかという問題ではない。勇気なのだ。

欠乏感と恥に支配され、不安であることが習い性になってしまったこの世界では、ヴァルネラビリティはそれに逆らうということだ。

不愉快で、ときには少し危険ですらある。もちろん生身をさらせば、傷つくリスクはとても大きくなる。

だが自分の人生を振り返ったとき、私は人生の傍観者だった、自分の存在を示し生身をさらす勇気があったらよかったのに……と思うほど、不愉快で、危険で、心が痛むことはないとはっきりと言える。

そう、生身をさらす勇気を持って自分の人生を生きる。生身をさらして感謝する人には、人とのつながりが必ずある。人とのつながりは必ず自分を強くする。人生の傍観者になんて、決してならないぞ!!

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